モオツァルト、宮本武蔵、イチローはなぜ凄いのか?天才が気づいていること【中野剛志×適菜収】
「小林秀雄とは何か」中野剛志×適菜収 対談第3回
■「意は似せ易く、姿は似せ難し」
適菜:小林が言いたいのは、結局、「型」はすべてにあてはまるということです。言葉や概念により、漏れ落ちるものを「型」をとおして「馴染む」ということです。型、姿、フォーム、トーン、文体、顔、立ち居振る舞い、箸の持ち方……。こうしたものが軽視され、概念、内面性、抽象が重視されるのが近代社会です。近代人はオリジナリティや独創を重視するけど、小林に言わせればアホの極みですよ。実際の物事にぶつかり、物事の微妙さに驚き、複雑さに困却し、習い覚えた知識など肝心かなめの役には立たないと痛感する経験を通してでしか、独創性に近づくことはできないと小林は言っています。
中野:そうですね。小林は本居宣長の言葉を引いてますよね。「意は似せ易く、姿は似せ難し」と。普通は逆に捉えるけれど本当は、姿の方が似せにくいんだよ、と。要するに、抽象的な言葉による意味だったら簡単に人に伝えられるけれども、個別の状況の下にある自分の実体験なんてものは、どうやっても伝えようがないじゃないか、と。
適菜:文体も顔も品も誤魔化せない。自ずとにじみ出てしまう。だから小林はそこを重視したんですね。
中野:そう、文体は誤魔化せないんですよ。恐ろしいですねえ。私が関心のある政治学で言うと、理論と実践について小林が語るところが面白いんです。小林を理解するうえで重要なのは、丸山眞男みたいに「小林は理論を否定した」と考えてはいけなくて、小林は「理論というのは、実践行為の中にあるんだ」と言ったということを押さえることです。実践は個別具体的なものだが、そこに理論がないわけではないということです。
例えば、小林は宮本武蔵に感心するわけです。宮本武蔵が書いているらしいんですが、なぜ自分は一回も負けなかったかと。それは、精神とか兵法ではない。俺がなんでずっと勝ち続けたかというと、手先が器用だったからだと。単にそれだけ(笑)。なんか奥義とか極意とかって言って物々しく出てきた奴らが、手先が器用な俺に斬られてる、と。この話に、小林は感動するわけです。要するに、高尚な哲学めかして「理性」がどうたらとか「真・善・美」とか言ってるやつは、まったくダメだということですよ(笑)。
適菜:理性万能主義や「真・善・美」といった発想の危険性を指摘したのが小林です。小林は批評も手の技だと思っているので、宮本武蔵の手先の器用さに注目したのでしょう。小林はモオツァルトに関して、《大切なのは目的地ではない、現に歩いているその歩き方である》(『モオツァルト』)と言いましたが、これは小林の自画像です。大事なのは手つき、タッチです。手の技が仕事を生み出すのです。